父と「やま」

父が生きていたら79才になる。

どんな79才になっていたのか、いくつかのパターンが想像できるけど、さて、どうだったろうか。

高校卒業後に父は「早稲田大学の文学部」に行きたかったとか。でも、「北大の工学部」に行けという祖父とけんかして家出して行方不明になったとか(両方とも、じゃあ、合格できたのかどうかは、かなり怪しいと思うけど)。1年以上経ってから帰ってきた父は、自分で体と腕だけで生きてゆく青年になっていて、ひとまわり下のいとこたちに、当時貴重品(?)だったバナナをたくさんおみやげに持って行ってあげたとか。そのいとこさんから「バナナをい〜〜っぱい持ってきてくれたんだ!!!!」という話を何度も聞いた(笑)。当時、よっぽど嬉しくて印象に残ったのだろう。

私が小さい頃、父は日高山脈のずっと奥地にある山小屋(=飯場)で春夏秋を過ごしていた、というか仕事していた。一度だけ、泊まりがけで連れていってもらったことがある。5時間とか6時間とか、獣道のような、柵もなにもない崖っぷちや森の中の道を(もちろん舗装なんてしてないから)がたがた揺れて行った。こんなところまで来て働いているのかと驚いたし、今思えば大変な職場だが、子供が夏に遊びに行く分には、五右衛門風呂があって、川の水を飲むとものすごくおいしくて、楽しい思い出が残った。

父も私たちもここを「やま」と呼んでいた。冬以外は「やま」に入って何日も帰って来なくて、久しぶりに帰宅すると、文字通り山のような、汚い臭い洗濯物と一緒(笑)。どうしてうちのお父さんは、他のお父さんみたいに、背広を来て毎日朝出掛けて夜帰ってこないの?と純粋に不思議で母に聞いた事がある(笑)。

むかしむかしは切り出した木材を運ぶために山の上と下の木をワイヤーでつなげて木を何かにひっかけて滑らして運んだそうで(お手製ジップ・ラインみたいなやつ?)、それに手でつかまって上から下までざざ〜〜〜っと降りて来たのがすごく気持ちよかったとか(かなり危険で怖そうだが楽しそうだ)、『オヤジ(=ヒグマ)』に遭遇して怖かったとか(ヒグマにおにぎりを食べられてしまったとか)、会社のやり方に不満を持った「やまのひと」たち(父の当時の身分は会社員だった)に鉄砲を持って囲まれておっかなかったとか、アイヌの人たちが自分達で作る「どぶろく」のようなお酒をよく一緒に飲んだとか、後年たまに話してくれたが、幼い娘とすごくうまくコミュニケーションがとれるタイプでもなかったので、ビビッドな話はあまり聞けなかった。もっと色々と聞いておけばよかったなと思うけど。

若いころずっと仕事でやまを歩いていた父の膝はかなりダメージを受けていて、私の結納の時も正座ができなかった。地下足袋でやまを歩いてばかりいたからか、足の裏はひどく固くてひび割れて汚かった(笑)。

後年、関東に引っ越したが、「平地」で働くんだからものすごく楽だ、と言っていた(笑)。中高年の山登りがブームになってきた頃「物好きだなあ。俺は二度と山になんか登りたくない」と言っていた(そりゃそうだろう。笑)。晩年は、「やまは辛かったな〜」と、ちょっと懐かしむように、でも本心から、つぶやくことがあった。

てことで、別に山登りが好きでもなんでもなかったとは思うが(笑)、まさしく「やまおとこ」だった父は、青年の頃に文学部を目指しただけあって(笑)、大変な読書家でもあった。生前はあんまりそういうことを感じなかったが、こういう人は、いまどきはなかなかいない、と思う(時代も違うしね)。ことさらそんな風に思うのは、やはり彼が私にとっては唯一無二の父だからなのだろう。仕事とか社会的なことで、ふつうにじゃなくてすごく凹んだ時、底からバウンスする力を私に与えてくれたのはいつも「私はお父さんの娘なんだから、大丈夫だ」という思いだった。そういう時、真っ先に心に浮かぶのは、なぜか、とっても仲良しだった母よりは、娘が受験した高校の名前も知らなかった父である。

配偶者には決してなりたくないタイプではあったが、父の娘であることは、私の誇りです。