息子の絵本に「やられて」しまいました

息子の誕生日が近いので、おばあちゃん(夫の母)が、プレゼントを送ってくれて、その中に「おじいちゃんがおばけになったわけ」という絵本が入ってました。

それを読んだ息子が私に「これ読んで。すごくいい話だから」と言うのです。
では読んでみようかなと思いながらそのままに。
そして、ばたばたしていて(だって、食事作ったり片付けたり、いろいろあるしね!)なかなかその絵本を読まない私に業を煮やした、息子が拗ね気味に・・・

なんのかんのあって、私がその絵本を読んで聞かせることになりました。

「絵本」にしちゃあ結構文字も多くて長いお話を、「ちょっとたるいな〜」と思いながら読み聞かせていたら、自分がおばけになった理由をなかなか思い出せなかった主人公のおじいちゃんが、そのことを思い出して主人公の男の子に話すくだりになって・・・

ぐぐぐ。やばい。ちょっと先のその文章を目で捉えた私の中で、「いきなり」涙腺が決壊。
やばいやばい。すぐそばで仕事をしている夫も見てるしな〜(汗)。
こ、こんなべたなお涙ちょうだい感動しましょう、の、子供向けの絵本にやられるとは・・・ぐぐぐ。

だめでした。

その先、その「理由」が分かるセンテンスをさあ読むぞという瞬間、ダム決壊。

涙声になってその文章を読み、もうその後は読めませんでした。

「あとは読んで」というと、息子が神妙な顔になって、でもちゃんと抑揚をつけながら物語の続きを読んでくれました。

読み終えてくれた後も涙が止まらない私を息子はだきしめてくれました。(夫はそばで少し驚いた顔で、でも、思いやりのあるしみじみした感じでそれを見てました。)

少ししたら、私はすっかり元通り。息子もだんなも元通り。

ま、これって心温まる家族のイイ話だと思うんですが(笑)、それは今日のポイントじゃないんです。

この体験を通して私がちょっと驚いて、また感じたのは、自分ではすっかり「処理」していたと思っていた感情のかけらは自分のどこかに残っていて、ほんのちょっとしたきっかけで、ダムが決壊するようにあふれてしまうのだな、ということでした。

<この先絵本のストーリーのネタバレになります>

おじいちゃんのが忘れていたことについて、おじいちゃんは主人公の男の子にこう話すのです。

「わしは、おまえに、さようならをいうのを、わすれていたんだ。
いちばんだいじな、まごのエリックにね」

私は亡くなった父のことを瞬時に思い出してしまいました。
私に「さよなら」を言うことができなかった父のことを。

もちろん、父のことを考えて今でも悲しくなることがあるのは普通のことだと思っています。まだ亡くなってからそんなに年月が経っているわけではないですし。

そして、そういう悲しみ対する意識も含めて、父に対する色々な思いを普段は「管理できている」と思っているのです。それを表現する、しないは別として。
(たとえば先日ブログに色々と書いたことも、私の中では父への思いの処理プロセスのひとつだったのだろうと思っています。)

ところが、こんな風に突然「決壊」してしまうほどの、量と強烈さをともなう感情。
そのかけらなのか源泉なのか。
まるで、おさえられない激情のような。
それが自分の中には残っているということに、私は驚きました。

やっぱりクールな振りをしていても(あれ、できてない?笑)、自分のことは自分では分かってないということですね。

いやあ、子供向けの絵本に、やられた〜〜。

そして思ったのは、父のおばけは見たことないから、さよならが言えなくても、本人はまあそんなに気にしてなかったんだろうな、ってこと(笑)。

そして、ひょっとしてあの時のあれが、さよならを言いに来たおばけだったのかしら?なんて思ったりもして・・・

もちろん、私には分かりません。

しかし、それにしても、

「やられた〜」

でした。