「ただ、させる」ということ
昨夜から本日にかけて、大雪でした。我が家の周りは、おそらく30cmくらいは積もったと思います。
我が家の玄関は、地面からちょっとした階段を上ったところにあるのですが、その階段は完全に埋没。スロープにしか見えない。玄関のドアも開きにくい。
車はガレージに入れたので、車の上に積もった雪をはらう・・・という作業はしなくてもいいけど、ガレージから公道に出るまでの道を雪かきしないと、雪がやんでも明日どこにも行けない。
ということで、夫がえっちらおっちら雪かき。子供もほとんど遊びですが、一緒に雪かき。大雪だったし、重い雪だったし、これといった機械もないから(周りの家、雪かきマシーンを持っている家、多いんですよ〜)、今日の雪かきは結構大変だったようです。とにかく二人でひたすら、ショベルで雪かき。
・ ・・2時間以上、かかりました・・・・
と、ここまでは前置きです(長っ)。
子供が寝てから、「雪かき大変だったね〜。子供は戦力にはならなかったろうから〜・・・」と、まあ、ねぎらいのつもりで夫に言ったんですよね。
そうしたら、夫がまじめな顔して言うんですよ。
「いや〜、でも、させないと、って思ったんだよね〜」と。
別に親の手伝いをさせないといけない、ということがこの場合のポイントではなく、夫曰く、「ただ、やらせる。一見つまんない作業でもとにかく、ただ、させることって、大事だと思ったんだよ」とのこと。
日本の学年だと小学校2年生の息子にとって雪かきは遊びのようなもの。でも、夫が言うには、息子はそうやって遊びながら、2時間の間に、「ショベルで雪をすくって横に投げる」もしくは「ショベルを引きずって雪を移動させる」という動作・作業がだんだんと上手になっていったというのです。
そりゃ、そうなんですが。
たとえば、サッカーをさせるとか、水泳をさせるとか、ピアノをさせるとか、そういうことって、意識して一生懸命させたりしますよね。
でも、雪かきを、意識してさせる、ってしないと思うんですよ。「お手伝いをさせる」という意識がある場合はともかく。
だって、「ショベルで雪をすくって横に投げる」もしくは「ショベルを引きずって雪を移動させる」という(重労働であるとは言え!)、語弊を恐れずに言っちゃえば、「ただそれだけ」の単純な簡単な作業を、わざわざ「習得させよう」って思わないわけですよね。
だから、お手伝いさせようとか、労働させようとか、あるいは雪国の暮らしの苦労を感じさせよう、とかいう目的がある場合は別として、その「行為そのもの」をあえてさせようとはあまり思わない。(それに、そういう目的がある場合は、必ずしも「雪かき」でなくてもいいわけですから。)サッカーやピアノはわざわざ(お金を払って)習得させよう、と思うのに。
でもね。
そういう一見単純な簡単な動作だって、作業だって、
ーーやらないと、できるようにならないーー
わけです。
そして、そういうどっちかというとつまんない、単純な簡単な動作や作業って、昨今、しなければしないで済むわけです(実際、ご近所ではちょっとしたお金を払って、家のまわりの雪かきをしてもらう人も多い。)
だから、そういう動作や作業ができるようにならない、という可能性、あるんですよ。
逆に、
ーーやればできるようになるーー。
至極明快。
そう、ただ、やれば、できるようになる。
ふつ〜に考えれば、特に難しいことじゃないから。
「ただ、させる」か否か、その一点において、できる(ようになる)、できない(ようになる)、が決まるんですよね。
(ピアノやサッカーは「ただ、させる」ことで、こんなに明快な決定的な違いは、出ないですよね。)
だから、とにかく、「ただ、させる」ことが大事だ、というのが夫のポイントだったわけです。
ふむ、ふむ。
もちろん、夫も別に「ど、どうしよう、うちの息子が雪かきを習得できなかったら大変だから、させねば!!」と心配してたとか、気合いを入れていたとか、そういうことではありません(笑)。
そして、雪かきは、あくまで一例なわけで。
他にも、ピアノやサッカーのように「さあ、がんばってやろうね」ということじゃないことでも、というか、だからこそ、とにかく「ただ、させる」方がいい、ってことって、あるんだろうな〜、と私も同感したのでした。

