"i just want to be with sad and depressed when they come to visit."
仲間の一人、Szosがフェイスブックに以下のような文章をアップしていて、とても心に響きました。少し長いのですが、“そのまんま”コピペしたいと思います(本人の許可を得ています。文章の途中で私の訳を挿入しています。正確さに欠けるところなどありますが、ご容赦ください。)
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being sad and depressed isn't so bad when i don't try to pretend i'm not sad and depressed.
i'm not sad and depressed in this moment. this is an easier place to start the discussion because i tend to lie more when i'm in the experience of it.
悲しいことや憂鬱になることは、悲しくないふりや憂鬱でないふりをしなければ、そう悪いことではない。自分は今現在、悲しいとか憂鬱というわけでない。悲しみや憂鬱のただ中にいるときはうそをつきがちなので、(そうじゃない今は)この話しをするのがより容易い。
sad and depressed is something i learned when i was young and i also learned the belief "sad and depressed are bad, you must be happy" and so i learned to pretend to be anything other than sad and depressed and it didn't/doesn't work and i end up feeling more fucked up from all the pretending and resistance.
自分は若い時に悲しいことと憂鬱であること、そして「悲しいことや憂鬱であることは悪いことで、幸せでなくてはいけない」という信条も学んだ。だから悲しいとか憂鬱である以外であれば何でいいから、とにかくそうじゃないふりをすることを学んだ。そしてそれはうまくいかなかったし、うまくいなかない。ふりをしたり抵抗をすれば、もっとぐちゃぐちゃで最低な気分になる。
i just want to be with sad and depressed when they come to visit. they don't tend to stay long if i'm welcoming, and i seem to be richer for the experience afterwards.
悲しみや憂鬱がやってきたら、ただ悲しみや憂鬱とともにいたい。自分がそれらを迎え入れていれば、それらは長くは留まらないし、 あとあと、より豊かな経験となるように思える。
*英語のdepressedというのは「憂鬱」だけではなくいわゆる「うつ」の意味で使われることも多いです。オリジナルの文章がどちらを意味しているかは定かではないけれど、今回は「憂鬱」と訳しました。
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何度も書いてますが、私は基本的にネアカで前向きな人間です。そしてこのことにもどこかで触れていますが、だからどんな嫌なことや悪いことでもあってもポジティブな側面を見つけて別の見方をしてみる・・・ということをほとんど無意識にやってしまいます。
一方、「悲しみ」や「憂鬱」のようないわゆるネガティブな感情が襲ってきた時、私のような対処を(自分でそうとは知らずに)してしまう人もいれば、その感情に飲み込まれてしまう、という人も多いのではないでしょうか。ちなみに私自身ももちろんそういうことがあります。
前者のような対処をする場合、もちろん良い時も数多くあるですが、それが「無理矢理」だったり、ややもするとネガティブな感情に対して見てみないふりをしたり、ということも、あります。そうなると、もちろん、あとで、そのひずみ、しわよせ、ゆりかえし、のようなものが来てしまいます。
だからと言って、悲しみや憂鬱が襲ってきたときに、じゃあ思いっきりそれらの感情に浸ることができるかといえば、そうもいかないことが多いと思います。悲しみや憂鬱に支配されると、まわりに迷惑をかけたりする(と思う)こともあるし、毎日の生活が立ち行かなくなってしまったりする。
私の勝手な推測ですが、実際には、中庸を行くとでもいうのか、その割合は様々でしょうが、前者と後者の間でなんとかバランスをとりながら、「悲しみ」や「憂鬱」に“邪魔されながら”(とまではいかなくても中断されたり気をとられたりしながら)も、色んなやりくりをする、という場合が多いのではないのでしょうか。
いずれに場合にせよ、「悲しみ」も「憂鬱」もあまり歓迎できるものではないし、そういう感情が全くないのも変だけれど、やっぱり、特に積極的に味わいたいものでもない、と、普通は思うと思います。「悲しみよ、こんにちは」という邦題の小説があったけれど、悲しみや憂鬱がやってきた時に、「あ、またお会いしましたね。こんにちは。最近いかが?」とはなかなかいかないもの。悲しみや憂鬱は、「招かれざる客」である場合が多いと思います。
でも、Szosはこの招かざる客に対して、ただともにいて、むしろ歓迎している方が、結局はこの客は長くは留まらないし、その悲しみや憂鬱がより豊かな経験となると言います。
これは悲しみや憂鬱をただそのまま受け入れる、ということと似ていますが、少し違うと私は思います。もう少し、能動的なそして軽やかな状態であるように思えます。ただだまって雨がやむのを待っているのではなく、雨そのものの経験を静かに満喫している感じとでも言うのでしょうか。
悲しみや憂鬱をそうでないものに転化しようとするのではなく、それがないことにするのではなく、かと言って拒絶したり抵抗したりするのではない。そして、何かとのバランスをとったり折り合いをつけたりするわけでもない。
そしてそこから解放されようとしたり、癒しを求めるわけでもない。
ただ、ともにいて、むしろ「やあ、来ましたね・・・」てな感じで、悲しみや憂鬱と一緒に過ごす。その後の晴れ間を堪能するために雨を耐えるのではなく、むしろ、雨の時にしか味わえない経験を味わったあとの自然の摂理として晴れ間がやってくる。そんな感じ。
そして当然、晴れの日の後は、曇りの日も、雨の日も、嵐の日も、また、巡って来るのですよね。そしてまたいつか、晴れの日がくる。
喜びや悲しみや憂鬱が、去ったと思ったらまたやってきて、やってきたと思ったらまた去っていくように。
晴れの日は晴れの日のように過ごす。雨の日は雨の日のように過ごす。晴れの日の経験も、雨の日の経験も、同じように尊くて豊かな経験となる。それはきっと日々の暮らしや人生そのものがより尊くて豊かなことになることとつながっているのだろう。Szosの文章は、そんなふうに悲しみや憂鬱とともに過ごし生きることの自然さと、その大切さを、私にあらためて思い出させてくれました。

