47才にして、捨ててみる。
私は現在47歳ですが、たとえば大学卒業したてで就職をした23歳のころと比べると、人様から怒られたり叱られたりすることが格段に減っていると思います。何かを教えてもらったり指導してもらったりすることについてもそうです。特に私は教員の仕事をしていたので、それだけが仕事だったころは、余計にそうだったと思います。叱ったり、教えたり、指導したりする「側」ですからね。てか、それ、仕事だし。
でも、私は「コーチング」というものを本格的に始めたのが今から3年ほど前ですし、レゴ・シリアスプレイについてはさらに後になってからです。空手は今年の1月から始めたので、この歳にしては「人様から教えていただいている」機会が多いように思います。茶道は長年続けてはいますが、お稽古のたびに師匠に怒られています(時に、けちょんけちょんに。笑)。
これまでの人生で年齢相応に築いてきたものもあるのに、なんでこの歳になってまた一から始めるのか。新たなことに挑戦して四苦八苦するのか。なんでこの歳になってけちょんけちょんに怒られるのか。って思う人、いるんじゃないかな、って思います。私も多分心のどこか片隅でちょっとだけ思ってます(笑)。
じゃあどうしてやるのか、というと、それは、それ以上に、この歳になって、自分を教えて導いて叱ってくれる人いる、っていうことの幸運と楽しさの方がはるかに大きいから、だと思います。
そして同時にそれは、まだまだ知らないことがある。まだまだできないことがあるということ。そんなのあたりまえのことなんだけど、それを日々実感してる機会が多いということでもあります。
なんか、これ、いいことだな、ってふと思いました。
この歳になって・・・とは、言っても、まだ中高年の域で老人というほどの歳じゃないし、諸先輩方々から比べるとまだまだ若輩ものですが。(とは言え、たとえばフェイスブックの「お友達」ひとつとっても、コーチング仲間にしても、茶道のお友達にしても、教員/研究者の仲間にしても、私、圧倒的に自分より若い人の方が多いということもまた事実。)
脱線しました。元に戻ると、この歳になって「不惑をとおに越したはずなのに、ほんと、まだまだだよ〜」って実感してしまえる、って、情けないっちゃ情けないことも確かにあるんですが。そして、かなり落ち込むこともあるんですが。でも、それって、別の見方をすれば、まだまだいっぱい学ぶことがあるんだなってことを実感すること。そして学び(とそれによる成長)の「のびしろ」(つまり可能性ですよね)が、自分にはまだまだあるんじゃないかなと(これも、ま、楽天的ちゃ楽天的なんですけどね。)感じられること、なんですよね。
もちろん、どんな分野におけるどんなにベテランであろうと経験を積んでいようと、「学ぼう」とすることはいくらでもできると思うし、そうあるべきなんだとは思います。でも、「すでに知っていること」「すでに経験していること」とそれらに基づいた能力がキャリアと呼ばれるわけですよね。そしてそれに応じた社会的な地位やお金などをもってしまうことが多いわけですから、どうしてもフォーカスがそちら、すなわち「すでに知っていること」「すでに経験していること」、そしてそこに基づいた言動、に向いてしまうものだと思うんです。周りもそこを見るし、自分もそこを見る。
だから、まだ知らないこと、まだ経験していないこと、にフォーカスを向ける、っていうのは、年齢や実績や経験を重ねてゆくにしたがってだんだんと難しくなっていくのではないでしょうか。何か、あえて、新しいこと、を始めたりしない限り。
私は別にそうしたかったわけではなかったのですが、2年ちょっと前に大学教員の仕事を辞めてアメリカに家族で引っ越して来た時に、これまで一生懸命こつこつと積み重ねてきたものを手放す、ということをしました。少なくとも主観的にはそう思えました。そして40代半ばで新しいこと、新しい生活、を初めて四苦八苦しましたし、今もしているところがあります。
だけど、逆に言えば、そういうことができる状況にいたし、いるわけです。色んな意味で。物理的状況、経済的状況、精神的状況、家庭的状況。いろ〜んな意味で。だって、47歳って、どっちかと言うと、人様を叱ったり教えたり導いたりする、そして養ったり、「責任」を背負っている人の方がうんとうんと多いもの。今持っているものを手放したてくても手放せない、という人の方が多いし、それが普通だと思う。
それなのに、私、45過ぎてからの方が、その前よりもずっと頻繁に「まだまだルーキー」とか「初心者」とか「へたくそ」とか「XXができてません」とか、もろもろ、その他類似したこと、言われつづけてるんですよ(ま、もうちょっとポジティブなトーンで言われることの方が多いけど)。仕事でも趣味でも。そして教えてもらったり叱ってもらったりしてもらえるんですよ。先生にも仲間にもそして時にクライアントさんにも(い、痛っ)。
あれえ、私、ラッキーだなあ、と思うのです。
まあ、言われた直後は「ショック・・・ずど〜ん」ってなることも多々ありますが(笑)。そういう感情の体験も含めて、ラッキーだな、と。
そしてひとつだけ、このラッキーな自分について、自画自賛できることがあります。上記の中で言うと「精神的状況」ってやつです。
ずばり、つまんないプライドにとらわれていたら、叱られたり、教えられたり、指導されたりする立場に自分を置くことってなかなかできないと思うのですよ。
それってつまり、「学ぶ」“のびしろ”がないってこと。成長しないってこと。
まあ、熟成して枯れていく・・・っていうのもありだろうとは思うのですが、さすがに、まだそれは早いんじゃないかなとも思うのです、現代の47歳としては。
上述したことをつらつら考えていて感じたのは、自分、その点、けっこうイケてんじゃない?ってこと(笑)。
私にもつまんないプライドありました。今も、自分のことでくだらないこだわりがあったりします。
でも少なくても、そんなものは、今とこれからの自分の何の役にも立たない、ってことだけは、分かってたし、今も知っている。
つまんないプライドやくだらないこだわりを捨てるのはキツい時もある。つまんない、とか、くだらない、とか言いつつも、それはやっぱり「自分」なのだから。自分にとっては大事なものだったりするのだから。それは、キツいっす。
でも、そこをほいっと手放し、えいやと振り捨てると、新しい世界がある。
無限に広がる、のびしろがある。
そこでは、自分がまだ知らない自分と、出会えるのかもしれない。
それを日々感じることができているだけでも(とは言え、常に、じゃないですよ。文句ブーたれてる時もありますよ、もちろん。笑)私の「決断」は間違っていなかったんじゃないかな。そう、思うことがあります。
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・・・・とは言え、「自分がまだ出会っていない自分」に会うためには、もちろん、みんながみんな、仕事を辞めて外国に引っ越す必要はなくて。
47歳になってないといけない、ということもなくて。
ついでに言うと「ほんとの自分」を探してどこかに旅に出る必要もなくて。
だって、自分はつねに「いま、ここ」にいるわけだから。
で、問いとしては・・・・「あなた」にとって、「新しい」こと、って何でしょうか。
人様から怒られたり叱られたりする機会はどこにあるでしょうか。
何かを教えてもらったり指導してもらったりするためにはどうしたらいいのでしょう。
手放すのがちょっと「キツい」類いのプライド、って何でしょう。
それは別に仕事や趣味のこととは限らない。
人間関係の、ちょっとした、そう、ちょっとしたこと、かもしれない。
「これが自分のスタイルだから!」、うん、分かるけど。
そのプライドは、これまでの「あなた」を作ってきたそのプライドは、「今」と「これから」のあなたにとって、本当に、一番、大切なものなのでしょうか。
どんな「あなた」にあなたが出会えるのか、まだ、誰にも分からないのに。
そしてあなたは、その「あなた」のこと、案外気に入るかもしれないのに。
そのプライド、捨ててみたら、もっといいものが手にはいるかもしれないのに。
違う世界が見えてくるかもしれないのに。
「できないこと」イコール「これからできるようになること」
だとしたら、あなたが今できないと思ってること、って、って何でしょう。
そこに、ひょっとして「これが自分だよ」と思ってるプライドを捨てること、入ってません?
そのプライド、捨ててみたらきっと分かります。
そんなプライド、あってもなくても、「あなた」は「あなた」であることが。
そして分かる。
うわっつらの、そして実はあなた自身を苦しめている、そんな類いのプライドを捨てたあとにだけ感じることができる、誰にも奪えない、あなた自身ですら「あなた」からもぎとることのできない、「あなた」を「あなた」たらしめている、魂のようなもの。
それこそがあなたが本当に誇りにすべき「プライド」なんだってことが。
そしてきっとあなたはもっと自由になれる。
おそらくは、もっと、もっと、幸せになれる。
最初は、ちょっとだけ、勇気、いるけどね。

